月山富田城

別名 月山城   付近住所 島根県安来市広瀬町富田 現在-
2008/11/24 碑・案内板あり 日本城郭大系


佐々木氏→
塩冶氏→
佐々木氏→
山名氏→
京極氏→
尼子氏→
毛利氏→
堀尾氏
 富田城は能義郡広瀬町富田に位置し飯梨川右岸の月山(海抜189m)を中心にして築かれた複郭式の山城である。城郭は内郭、外郭から構成され、塩谷口、お子守口、菅谷口の三つの入口がある。周囲は断崖絶壁が多く防衛上、軍政統治上も欠くことの出来ない立地条件を具備しており、中国地方における中世城郭の代表的な城郭として重要視されている。
 伝承によれば、保元、平治の頃平氏の部将によって築城されたと云われる。文治元年(1185年)佐々木義晴が出雲の守護として入城以来、それ以後塩冶、佐々木、山名、京極、尼子、毛利、堀尾の各氏が歴代城主として交替しているが最も栄耀栄華をきわめたのは陰陽十一ヶ国を領有した尼子の時期である。慶長16年(1611年)堀尾吉晴の歿するまで4百27年に及ぶ間軍政上の一大拠点であった。

 富田城は、島根県安来市広瀬町に残る、この地方を代表する広大な中世山城跡です。
富田城の始まりは、12世紀の広範、源頼朝が出雲の守護として佐々木義晴を任命したこととされますが、尼子家三代の戦国武将によって富田城は最盛期を迎え、江戸時代の初期まで富田城は多くの変遷を繰り返しました。尼子氏は大内氏、陶氏、毛利氏との戦を繰り返しながら、因幡、石見、備後など11カ国にも及ぶ広大な領地を拡大しました。
しかし、その尼子氏も毛利元就に攻められ、1年半ものあいだ富田城に立て籠っていたにもかかわらず、富田城は毛利氏の手に渡ってしまいます。1600年関ヶ原の戦いで徳川家に敗れた毛利氏は富田城を追われ、替わって徳川家康に味方していた堀尾吉晴が富田城に入りました。
しかし、山奥にある富田城が出雲支配に不便なことから、堀尾氏は城を現在の松江城に移してしまいます。難攻不落と言われ、数々の武勇を生んだ名城富田城は、その後二度と城として使われることはありませんでした。

    

二ノ丸
発掘調査により、建物や柵の柱穴跡が検出されました。そのうちの1棟からは備前焼のカメが3個発見されました。戦時に飲み水や食物を貯蔵するための建物だったと考えられます。曲輪の周囲には石垣が積まれ、二ノ丸と本丸の間には深さ約10mの空堀(堀切)が石垣で造られていました。このように最後の砦である本丸を厳重に守っていました。

三ノ丸
月山の山頂部には、最後の砦として本丸、二ノ丸、三ノ丸という曲輪が造られました。三ノ丸はその入口にあたる重要な曲輪でした。
発掘調査により段状の石垣と、崩れ落ちた石材が確認されました。戦時に石垣を段状を多くの兵が通路とそて利用したり、敵を待ち構えたりするために段状に石垣を積んでいたのではないかと考えられます。また、わざと曲げられた入口通路も、敵の侵入を困難にするための工夫でした。このように戦国時代の築城には城を守るための工夫が随所にみられます。

    

山中御殿
富田城の御殿があったと伝えられる場所で、通称山中御殿と呼ばれています。月山の中腹に位置する山中御殿は、菅谷口、塩谷口、大手口という主要通路の最終地点ともなっており、最後の砦となる三ノ丸・二ノ丸・本丸へ通じる要の曲輪として造られました。まさに山中御殿は富田城の心臓部と言えるでしょう。周囲には高さ5m程の石垣や、門、櫓、塀などを厳重に巡らせることによって敵の侵入を防いでいました。整備工事は昭和49〜57年度、平成5〜8年度で行いました。石垣の調査を中心とした発掘調査では門・石段・井戸・櫓跡などが見つかり、塩谷口で見つかった門跡はなかでも特徴的なものです。

    

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